昭和40年04月23日 朝の御理解
何の稽古でも同じだと思うんですけれども。例えば、お茶ならお茶の稽古をさせて頂きますと、少し、お茶の雰囲気とか、んー、様々な、まぁ、手前の心得もだんだん出来てまいりますと。人も道具を選びたくなります。茶室も一つ欲しいなぁと。それには、やはりそこの雰囲気を、いよいよ、良くするために、様々なお茶の道具なんかも、こった物を欲しいと思う。軸の一つも欲しいと思う。
茶碗一つも、何万円もするといったような物をです。集めたくなるのが、大体人情なんです。信心も同じこと。その、人情を出すんだけでも、その人情にまけては、私は本当な、いわばお茶のけいこも出来なければ、いうなら信心でも同じこと。信心のけいこが出来ないと。ね。信心をさせて頂くということは、確かに本心の玉を磨くことであり。日々の改まりが第一であり。
本当に改まらせて頂くことによって、磨かせて頂くことによって、その引当のように下さるところの、信心の喜びと、有り難さと。真に有り難いと思わせて頂く、その稽古だと。いうなら、例えば神様は、柱に御神米を貼り付けてでも、信心は出来るのである。けれども、信心が段々分かってくるようになりますとです、信心が、分かってくれるようになりますと、どうもそんなことだけでは勿体無い。
始めは、小さいお社で拝みおったのが、段々、檜の香ががぷんぷんするようなご神前を作らせて頂いたり。ね。神様も大きく、八足、三宝と、御神号といったようなものも、やはり段々、集めたくなるのが人情。いや、またそうならなければできない。内容が出来てくれば、くるほどに。ところがです、先代は、そういうふうにして、立派に御神様の間としてから、御神様でもお祭りする。
もう、見事な御神様をお祭りしてあるけれども、二代になり、三代になってくると、それがもう、形式的な、いわゆる、信心の本末を忘れてしまって。ただ、家には金光様がお祭りをしてあるというように、過ぎないようなことになってきたのでは、つまらん。いわゆる、信心の徳を頂いて、その徳が子に孫に伝わっていくようなおかげ。例えば、その雰囲気だけでも、まぁ、その例えば、有り難うならせて頂けれるという。
例えば、お茶でいうならば、茶室の一つも、茶道具も、それにいよいよ、お茶の精神をです、味あわせて頂くための、それであればよいのだけれども、お茶の精神はどこやら行って、ただ何万もする茶碗であり、何万もする水差しであり、ね。そしてまた、他所には無いといったような軸を掛ける事だけが、それに、まぁ、それを競うように例えばなる。宗教の、この会堂なんかでもそうである。ね。日
本の、日本だけではありますまい。世界のどこの事でも言えれると思うんですけれども。宗教の建築そのものが、やはり、建築の粋を集めるというのが、みんな、この宗教関係が占めておるそうですね。いわば、あの、仏教で言うなら、あの大きな今の京建に残っているようなお寺さんというのは、みんな、それこそ見事な、その建物。ね。そのたたずまいというものは、何ともいえんほどの考慮が払われておる。
素晴らしい建築。ところが、その段々に、その仏教なら、仏教の精神が段々欠けてまいりまして。観覧料を取ってから、そのお寺さんば見せることによって、そのお寺が立っておるというようなところが、京都当たりには沢山あるということ。人が助かるという事ではなくて、魂が清まるといったような事ではなくて、ただ、その時代に出来たところの、いわえる、伽藍堂です。中は伽藍堂です、本当に。ね。
その伽藍堂を人に見せて、いわば、見せ賃です。観覧料をとってから、そのお寺が立っておるといったようなことになってくる。いわゆる仏教の精神を、段々無くしたからです。それこそ、みかん箱の仏様を拝ませて頂いても、その仏様が、生きた仏様としての頂き方、仏教の精神を体得していけば、それで、極楽行きが出来るのであり、日常生活は安心、安楽のおかげを受けるのである。
この辺が大体、私は本当に、まぁ、人情と神情のところをです。私はおかげを頂かなければいけないなと、こう思うんです。ね。私は、椛目の場合、今度御造営と、なるほどあそこに、図面に出来てきておる、なんと言っても、それはやはり、図面の上で見ましても見事です。だからあの、見事であるという、だけにふさわしい信心の内容がです。私は、皆さんの上に出来ておらなければ、結局、伽藍堂になりますよ。
御広前はいわば、百畳敷き、ところが御信者は、僅かばかりという。こげな、体裁の悪いことはありません。といって、なら、観覧料を取ってから、見せるほどの立派な物じゃないという事だったら、いよいよ、いけんじゃないですか。ね。私は先日、小石原に、窯、窯めぐりをさせて頂いた時です。まぁ、見事な、あの、民芸館というのがあって、中でお茶を振舞ってくれました。
ところがそのお茶の葉がどうもちょっと私、嫌な味がしましたから、私にはあの白湯を下さいと。茶釜にしゃんしゃん沸いてるんです。その白湯を頂かせてもらいながら、ね。この白湯は美味しいな~と言うた。そこにサービスをしてくれる女中さんがですね、もうこの白湯の味の分かる人は、滅多にありませんっち言うてね。まずお茶をさせて頂くならです、お茶の味も分からせて頂くこともさることならです、ね。
水の味、やはり白湯の味が分かるようにならなければ、本当のお茶は分からんと、ね。ただ、お茶の味だ、お茶の味だと言うておるところにです、根本的なところに、触れていないところにですね、ただ、雰囲気だけ、気分だけと。ね。いわば、茶道具だけが、きれいに見事に、並べられているというだけで、お茶の精神を、がなくなったら、もうそのお茶は死んだお茶も同様なんです。
信心も同じこと。信心の精神というものをです、信心の、とは、こういうものだと。信心とは大きな伽藍堂を建てることではないのである。ね。信心とは御用をさせて頂く事だけではないのである。信心とは、どこまでも本心の玉を磨くものであり。どこまでも、日々改まりに改まっていくのであり、ね。そこにその、引当のように、神様が与えて下さるのが、心に下さる安らぎであり、喜びである。ね。
そういう喜びが、やむにやまれん事情とか、やむにやまれん心の上にです、ね。御広前を例えば、建立されるというものでなからなければ、私は、ね。本末転倒してしまうことになってくるとこう思うです。ね。どうぞ一つ、この辺のところを人情と致しましてです。ね。ある教会で、教会を立てるというので、あっちこっちの教会を見に行った。あそこの御広前は何畳じゃけんで、せめて、あそこよりか五畳ぐらい、10畳ぐらいは広くせないかんといったような事でです。ね。
あそこは、あん位じゃけんで、家はこの位せな出けんといったような、いわゆる、負けん気ばっかり張ってです、いわば、建てた御広前で、人は助かるはずがない。もう、いわば、どういうことになりますか。私はある教会のことを聞かせて頂いたんですけれども、御広前は、百畳敷き、ところが御信者さんは、ちょこっとばっかり。もうその大きな、それ、もう使用が無いもんだから、とうとう、その百畳敷きの御広前をです、幾つにも小部屋を作ってから。
そして御広前の方がすこしばかりに。掌握されたと、これは、つい最近聞かせて頂いたお話。ね。ただ、広ささえあって良いといったようなことで、私は建立されたものは、そんなことじゃない、そんなことに、終わらなければならないと私は思うんですよね。例えば、ほんなら、ここの場合なんかそうだったですね、もう本当に、もうこれではどうにもこうにもその、おー、出来ない。
だからさぁひと部屋、いみらかしてと言う様にして、ここの屋敷いっぱいに、いわばその広げさせて頂いて、もうこれでどうにも出来ないと言う所に一つの事情もです、そうしなければならない様な事になってきた。ね。ここのところを一つお互いがですね、分からせて頂かないとです。本当な事になって来ないではないかとこう思う。昨日私は、ここへ座らせて頂いておったら、頂くということ、蒙るということ。
おかげを蒙るという、ね。ということは、その、が、違うという意味のことを頂いた。どういうふうに違うのだろう。おかげをこうむりましてと、こう言う。おかげを頂きましてという。同じことのごたる。ね。ところがです、よくよく考えさせて頂きますと、私は昨日、そのために、もうこんな厚い字引きをづっと調べてですね。蒙るということと、頂くということがどげん違うか。
いわば、その調べて見た。ところがその、出てないです。どうも、おかげを頂きまして、おかげを蒙りまして、と同じことのごたる。ね。ところが、よくよく分からせて頂きますとです。なるほど、おかげを蒙らないかんなということです。蒙ること、ということがです。おかげを蒙らせて頂くということが、有り難いと頂かなければいかんち言うこと。ね。蒙るということはどういうことか、ね。
災難を蒙るというでしょう。被害を蒙ったというでしょう。ね。ですからです、例えば頂くというのはです。自分の願ったことを貰う時に、頂くというのです。蒙るというのは、神様が下さるのです。願わんでも下さるのです。ね。勿論、神様が下さるその中にはです。いうなら、雨もあれば、お天気の日もあるということ。今日は、お湿りを蒙っているわけなんです。ね。
ですから、そのお湿りそのものも、蒙っているのであるから、有り難く頂かなければいけないということ。普通では災難を蒙るというけども、その災難そのものが、その難儀そのものが、おかげの元であるという頂き方が出来なければいけないということ。いわゆる蒙らせて頂くのである。ここのところが、例えば、ならお茶をやらせて頂くならです。茶道具だけに凝らせて頂くといったようなことに、血道を上げずに、まず白湯の味が分からせてもらう。ね。
同時にお茶の精神も体得させてもらってその上です、なるほど良い茶器です。ね。良いなら茶碗なら茶碗なり、茶道具なら茶道具なりが集まって来るのであったら、これはいよいよ有り難い。私は椛目の広前建立は、そういうものでなきゃいけないと思う。ね。いわゆる白湯の味が分かり、水の味がわかる。信心の味わいというものがです、なるほど磨かなければ、改まらなければ信心の味わいは頂けれるものではない。
一生懸命の信心修行の味わいというものを分からせて頂いてね。そしておかげを蒙らせて頂く味わいというもの。おかげを蒙るという事の中にですね。本当の信心を分からせてもらい。いわゆる頂くと蒙るの差が分からせて頂くようにならせてもろうて、一切が蒙らせて頂くのでありね。そういうおかげを内容として頂かせてもろうて、始めてそれにふさわしい御広前が建立される。これであったら愈々私はおかげだと。ね。
もうせっかく、やるなら、まちっと広げなん、折角、やるならまあ、ちょっと美くしゅうせな、ということだけにです。例えば焦点がおかれたとしたならばです、必ず伽藍堂になると私は思うのです。有り難い、勿体無いがです、ね。信心の本当の精神というものを分からせて頂いて、信心の本当の精神というのは、只今、申しますようなこと。ね。そこを体得させて頂いての御広前であってです。
なるほど、雰囲気の中にも、御広前に入っただけでも有り難いというものに成って来る。それに内容から湧いて来る事の有り難いとが、一つになってです。ね。心の中に、頂くところを有り難しと。そのたたずまいとかその諸々の中にです。有り難いものが漂うておるというような、それが一つになって本当の私は信心だと。いわば信心の稽古場ということがいえれると思う。ここへは信心の稽古にくるところと仰る。
家庭のものが、がちゃかちゃ言うておる、ほこりかしておる。ね。そういう中で信心の稽古をすることは、いうならば稽古がしにくい。ね。稽古のし良いように広前が出来るとこういうことはです、有り難い。ところが、あまり稽古の上に、例えば、ね。古いお寺さん方に参りますとです、なんとはなしに、宗教的雰囲気というようなものがです。いわゆるたたずまいというものが、お寺さんならお寺さん、お宮さんならお宮さんの雰囲気の中にです。お宮さんであるならば、神々しいまでに。ね。
大きな杉が、づっと、こう、立っておる。高良山当たりに行って御覧なさい。行っただけでも、襟を正さなければおられないような、頭の下がるような、いわば、雰囲気だけはあるけれども、なら実際、拝んで有り難くはなれないでしょう。生きたものがないからです。お寺さんでもそうでしょう。ね。あの線香の臭い。お堂一杯に、その線香の臭いが染み込んでいるような感じ。あれだけでも心が落ち着く。
お経の声、鐘の音、木魚の音と。なるほど自分の心を洗い清めてくれるような気がするんだけれどもです。そういう雰囲気だけでは、助からないでしょう。ね。まず、自分の心の中に湧いてくるようなもの。それでいて、その雰囲気があって始めて、本当なこと。ためにはです、頂く信心からです、蒙らせて頂くところの信心。蒙らせて頂くということに、お礼の言えれる信心、内容。信心とは、どこまでも、信心をしておれば、一年、一年有り難うなってくると仰る。
有り難うなっていくことを楽しみに信心させてもらう。その有り難しがです、その勿体無いがです、じっとしてはおられんというのが御用になり。今度の場合、椛目の場合であるなら、その有り難い、勿体無いがです。どうかせにゃおれんというものがです。御広前建立といったようなことにならせて頂かなければ、本当なことじゃないのでは無いかというふうに、まぁ、感じるのです。ね。お茶は茶器で飲むのではない。ね。お茶そのものの味が分かるようにならなければならん。
ためには先ず、ね。白湯の味が本当に解らなければならない。ね。信心もそういうのところからです、本当に、信心でいうところの白湯の味とはなら、どう言う様な事かということを、今日は私今申しましたと思うんですけれども。そこのところは皆さんどうでしょうか。分かっていきよるですか。おかげの味わいだけは分かっているけれども、本当の信心の味わいが分からんというのではまだ、ほんなもんじゃないですね。
おかげを頂きました。